【五福會】熊本市の姓名判断占い 愛ネームスタディ

姓名判断・命名改名相性 滝口敬祥運命学研究会門下五福會

【滝口先生の運命指針】はじめに

投稿日:2017年9月16日 更新日:

滝口先生のお話の一部です。

はじめに

もうかれこれ25、6年ほど前にもなるか、とある新聞社で姓名学の理論的な質疑があった時のこと。

ある新聞記者が、
「私たちは夜暗い山道を歩いて目的の所へ行き、一泊して翌朝もと来た道を引き返そうとして驚いたのは、一本の丸太橋があり、その下は千仭の谷底で一歩踏み外せばもちろん生命がない。暗い時は何も知らずに渡れたのだが、このようなとき渡ってもとに戻れると思いますか?」

というような質問があったことを記憶しています。

これは仮定の問題であり、簡単に言ってしまえば、人間は何も知らなければ、どのような危険な夜道でも安心していけるが、さて現実に目の前に、その様子を知ってしまっては、足がすくんでしまって、とても渡れるものではないという事で諺に言う「知らぬが仏」である。

姓名学でも同じことで、自分の名前は良いとも悪いとも考えなければ、過去にどのようなことがあり現在はいかなる苦労があっても、また未来にどのような危険が待ち構えていても、「我関せず」で世間が渡れるというような言味にも解釈されると思う。

 が、さて現実的に自分の運命が過去において、これこれで現在はこのようで、未来はこのようになると予言された場合、普通一般の人たちの通念は過去と現在が的確にそのもの「ズバリ」当たっていれば、誰でも「それでは未来の凶運をどうしよう」と心配するのは当然で。

話は丸太橋に戻って、「このような時に、もと来た所へ平気で戻れますか?」ということは「あなたならどうしますか?」ということでなければこの質問の意味がなくなる。

知らずに渡った危険な丸太橋は、過去に何も知らずに渡ってきた危険な運命を意味し、もはや過ぎ去ったもので、実際にはなにも引き返さなくても良いものであるが、どこまでもこの丸太橋にこだわっての議論なら、本末転倒した愚問と言うほかはありません。

仮に理屈ばかりのものであれば、海の上でも簡単に歩けることになる。すなわち左足が沈まないうちに右足を出せば良いのである。

このように理屈は通っても現実的に行うことのできない理屈を屁理屈と言う。

何となれば運命上における過去の危難を「知らずに渡った丸太橋」に装って、もとに戻れるか戻れないかと言うのはまったくの屁理屈と言う他はないのです。近代、実にこの屁理屈を言う人はずいぶん多いようであります。

また、自分の悪いところを棚に上げて「何は俺をこうさせたか?」と自分の悪いのは世間や他人のせいにしているようである。

また世間は世間で、「何は彼をそうさせたか?」というような調子で、なんでもかんでも周囲や他人の責任にしてしまうということです。

このような徒輩に限って何でも「俺」が「俺」でなければであります。

その「俺」とは何であるかということも分かっていない。「自分は自分だ」「私は私だ」では何の真価もありません。

自分は自分であるが、その根本的実体はすなわち「生命」であり、「生命なくば自己が自己たり得ない」ことになる。「自分」とは「生命」であり自分を代表して権利と義務が遂行され、「死亡」すれば個人の霊を宿して永遠に不滅であります。

故人霊の宿るところは、天でもなければ地でもありません。その姓名に宿って永遠に不滅であると言うところに姓名の真理がある。

「楠木正成」という名を示せば明らかに大忠臣の「正成公」の個人霊を現在でも容易に表現できるのです。

ゆえに「姓名即神」となります。かくの如く不滅の真理である姓名の神聖さを自覚できるようになれば何でも他人のせいにしたり、世間への反逆というものが無くなり名実ともに人間らしい人間として、生まれ変わることができます。

しかしいかに人間らしく生まれ変わっても、不幸であればなんにもならないのです。

幸福をもたらすものでなければならない。そこで運命学を論ずる必要性が生じてくるのであります。

近い例として、真夏の厳暑の中で、蟻が自分の何百倍もあるかわからない大きな獲物を自分たちのすみかに運んでいるのが目につきます。

何の事はない、まっすぐに行ってしまえば簡単に目的を達成できるのに、右に行ったり左に方向転換したり、さらに反対側に寄ったり、後に逆に戻ったり。なかなか捗らないがこの蟻のやっている事を人間も同じようにしています。

人間人生において順調に何事も支障なく進展する人もいれば、現実、この蟻と同じような道(運命)をたどっている人達はいかに多いかということです。

万物の霊長と自負する人間が裸体で生まれた。神がその人間に智と力を与えられたのです。裸体の人間が生存していくのに必要なすべてが人間の智と努力で出来上がっていきました。それは形而下の科学となり形而上の宗教となり文明文化の発展となり運命学も必要欠くべからざるものとなりました。それは医者や薬にも匹敵する重要なものと言っても過言ではありません。

しかしおそらく多数の人達は、運命学そのものは非科学的な、訳のわからない唐人の寝言くらいに考えていることでありましょう。

実際、我が国で行われている運命学は実に多様であり、なかにはまったく取るに足りぬ迷信的、さらに害が多くて益の無いものも多いということが真実です。

現在世人の関心を集めている「天中殺」だの「暗剣殺」などもこれに類したものであると思えます。

私はここにあえて運命学の新設を唱えるものでもなければ独自の全く新しい学説を説くものでもありません。学んで来た運命学を三十有余年間実際的に応用して、その体験に基づいた事実を、赤裸々に発表して一般有志の方々の良い意味での運命指針ともなればと念願して必読とご支援を乞う次第であります。

多数の人達に処世上役立てば私の望外の喜びとするところであります。

-滝口先生の運命審学書

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