滝口先生の姓名学理論
~名前は単なる符号ではないことを考える~
こちらの内容は、カセットテープに録音した音声をもとに書きました。
あなたの魂はどこにあるんですか?と聞かれたら
<自分とは何か?>
自分とは何かと言ったら、生命、命である。
生命は根本的には実体であって、さらに掘り下げていったら「魂(たましい)」ということになっていきます。
「あなたの魂はどこにあるんですか?」と人に聞かれたらね、あなただったらどこにあると答えます?
「心にある」と答える?
だいたい有心論的な人は「心にある」と答えるし、有物論的な人は「肉体にある」と答えるわけね。
ところが、心だけだといかんし、肉体だけでもいかんということが言える。
なぜかというと、心は有物の肉体を通して存在しなければいけない。ですから心だけでもいけないし肉体だけでもいけない。
物心二元論というか、物と心の両方。これはちょうどプラスとマイナス。陰と陽と同じ。陰だけでもいかんし、陽だけでもいかん。これは2つないといけない。
それで、「魂が宿るとこはどこか?」と聞かれたら「心身にあり。」ということが答えになるわけ。全心身ね。
そしたら「その全心身を代表するものは何か?」というと、名前です。
姓名は生存中、自己を代表して、権利と義務が遂行されていきます。
ですから「全心身に自分の魂が宿っていて、その魂を代表するものは姓名である。」ということを考えたら、いかに姓名というものが大切なものかということが分かると思います。
名前は自分を代表するもの
人が一度あの世とこの世とに別れた場合。
亡くなった場合、故人霊が宿る所は天でもなければ地でもない。自分の名前に宿って永遠に不滅であるということに名前の真理がある。
ですから、その名前はどうでもいいという訳ではないのです。
そしたらその名前をいかに正していくか。
理論的に言ったら姓名学上吉名にするということと、さらにもっとよく言ったら先天的な、生まれた星にかなった吉名を付けていったら本当の完全吉名になるということですね。
自分の名を大切にする「姓名尊重」という思想
今ここにいる自分はこの世の中にたった一つの存在で代わりがいない。
もう二度と出てこない貴重な存在。
その貴重な存在の自分を正さないかん。尊ばないかん。自分の名前を尊んだら悪いことはできないですね。
例えば、ちょっとお金欲しいから盗ってこようかなと思っても、「そういう事したら自分の名を傷つける、自分が人から後ろ指さされる。そうなったらいけない。」となる。
自分の名を尊べば悪い事はできないわけですね。ですから、これは姓名尊重の思想にも通ずるのです。
名前を尊重していたらいいのなら吉名でなくてもよいのでは?
これはもういくら尊重して自らが正しくしても運命というものには勝てないのですよ。
「働けど働けど自分の暮らしは楽にならないとじっと手をみる」という詩があるように、努力だけでもいけないし、そして尊重してるだけでもいけない。
やっぱりこれには自分の全魂、全心身を宿して、それを代用する名前が吉名でないといけない。
そしてそれを信念をもって使い、その名を辱める行為をしない。この気持ちさえあったら人間が幸せに生きられるんじゃないだろうか。
あるいはたくさんの人たち皆がそういう気持ちをもったら犯罪なんかも自然に消滅していくと思います。
ただ、自動車事故なんかのような轢くつもりなかったとしても、あるいは轢かれるつもりがなくても轢かれてしまうというのは現実の世の中にありますが。
ところが轢いた人、あるいはそういう方々を詳しく調べてみてもやっぱり一つの凶星というのが付いてまわってるということが、はっきり姓名学を研究していったら自分で悟ることができると思います。
ですから、やっぱり「名前は吉名にしないといけない」ということが言えると思いますね。
そして、その名を尊重して、その名を崇めて、辱める行為をしない。と信念をもとに努力していくなれば、必ずその人は社会的な信用というものを得て、明日の繁栄に充分つながっていくわけです。
そういう心を絶えず持っていった人は結局、人生の最後の幸せを掴める人です。
もう自分のしたい放題好き放題のことをやって刹那刹那の享楽をもってやっていくというやり方の人は、その時はいいでしょう。
ですから、名前というのは単なる符号でないということです。